鈴木謙介さんを偲んで

庄司征彦

 東山荘で過ごしていた正月の2日上原玉音さんから電話があった。それが謙介さん逝去の一報だった。当日は正月だけ出現する年一回だけの東山荘ワイズメンズクラブ例会の日だった。謙介さんは何度もこの会に出て面白がってくださった。私がワイズに入ったきっかけの一つがここ東山荘の庭でお目にかかって、氏が親しく声をかけてくださった事でもあった。私が入会した時東京クラブには日本で初の国際会長バナーと片岡健彦日本区理事のホームバナーが壇上に並んでいた。こんなクラブはいまだかってなかったことだし多分今後も無いだろう。大阪、北京、東京、大阪センテニアルクラブと人生のほとんどをワイズで過ごした謙介さんの思い出を特集した。神戸岡本教会の村上銑彌牧師がいみじくも述べられた「巨星墜つ」がわれわれ日本のワイズに共通の心境だろう。氏の長女上原玉音さんにとっては父、付き合いの長い中冨さん、熱海国際大会で苦労をともにした辻村さん、共に大阪センテニアルを起ち上げた山中さんそれぞれにクラブを代表して思い出を記していただいた。松本さんには式当日のレポートをお願いした。


[2001年6月東日本区大会で東京クラブのメンバーと共に]
(写真中央のベレー帽姿が鈴木謙介さん)


上原玉音

 父、鈴木謙介は1月2日早朝、隣で寝ている私に別れの言葉も無く旅立ちました。昨年9月頃より体調を崩し二度入退院をくり返しましたが、日常は何の変りもなく暮らしておりました。12月25日は讃美歌を沢山歌い、家族と共にプレゼント交換をし、父の力強い祈りも聞く事が出来ました事は、思い出しても嬉しいひと時でした。元日は妹の心込めた雑煮を食べ「明日は家族全員でパーティーよ」と言うと、とても嬉しそうでしたのに……。聞いておきたかった事は山ほどです。家族、ワイズ、信仰を3本の支えとして立派に生きた父は私の誇りです。まだ悲しむ間もなくバタバタ妹と生活しておりますのでご安心ください。すべての方々に心からお礼申し上げます。


正面教師

中冨頴隆

 個人的なことで恐縮ですが、今回のご葬儀で喪主になられたご次男「頴二」氏と私の名前の「頴」が同じ文字であること、頴二氏がホテル業界で活躍され私の仕事と類似の業務なので、鈴木家には言葉に出ない親しみを覚えています。いろいろな事に細やかに人の気持ちを察してくださる方でした。熱海の国際大会の前、東山荘で各国代表会議の議長役として、落ち着いて冷静、透き通る声での議事進行、問題の整理整頓は「急がば廻れ」の諺どおり、スローのようでありながら確実に結果を実らせるお手本、まさに「正面教師」でありました。昔ベギオで開かれたフィリピン区大会に参加のお誘いを受けた時夫婦で参りましたが、晩餐会で故人と私共3人が日本の代表として壇上のヘッドテーブル席が与えられ、大いに気を良くした思い出がありますが、それもひとえに「故鈴木ケンスケさん」によるものであることは語るにおよびませんことであります。


[2000年6月例会を訪問した鈴木謙介さん(写真下段中央)]


日本で初めてのワイズ国際大会

辻村克己

 アジアで最初のワイズ国際大会が1975年熱海で開催され、鈴木謙介氏がアジア初の国際会長に就任された。今から30年前は日本での国際会議の経験がほとんどなく、鈴木さんを長とし80名のワイズが7つの委員会を構成し苦労して準備を進め、私は広報委員長としてお手伝いをさせていただいた。パソコンもワープロもない時代、広報委員20名が3日間徹夜で英文ブリテンを作り、毎朝食時に配布して、1,100人の参加者に喜ばれ、鈴木さんから「ようやった」とお褒めに与かったことが懐かしい思い出である。前に当クラブメンバーであった鈴木さんをサポートするため東京ワイズから40名(現存12名)のメンメネットが参加した大会は、鈴木会長のリードで成功裡に終了、ヨルゲンセン大会委員長から高く評価された。


[鈴木謙介さんの国際会長標語]


Y'sっぷりのいい男

山中秀男

  私が大丸ニューヨーク事務所長を拝命していた時、謙介さんは大丸海外事業担当常務として上司でした。昭和56年「大阪YMCA設立100周年を記念してY'sメンズクラブを創るので君も参加しないか」と声を掛けて頂き、他の会員候補共々謙介さんに引率され、大阪クラブ、土佐堀クラブの例会に出席し、オリエンテーションを受けた。新クラブの名前は甲論乙駁なかなか結論が出なかったが最後に謙介さんが「シャーロットタウン(カナダ赤毛のアンで有名なプリンスエドワード島にある都市)YMCA設立100周年にシャーロットセンテニアルY'sメンズクラブが出来ている。大阪センテニアルクラブでどうか」と提案があり一気に決まってしまった。次は会長人事。これまた謙介さんから、「僕が書記をするから山中君でどうでしょう」と提案され、うやむやのうちに決まってしまった。国際会長をやった人の書記就任は、その後会う人ごとに話題にされ、これは大変なことなんだと悟った。最後にダンディー鈴木謙介さんのエピソード一つ。謙介さんは僕の造語だがと断りながらY'sっぷりのいい男と呼ばれたいと仰っておられました。Y'sっぷりのいい男の大往生でした。


鈴木謙介さんの告別式に列席して

松本良三

 午後1時30分の開始であったが、降り出した雨の中大分前からぞくぞくと会葬者が集まられ、すぐに教会内の席はいっぱいになった。祭壇には、ベレー帽をかぶりややほほえまれたいつものお写真があり、棺はワイズのバナーで覆われ、その上には私たちの見慣れたご愛用の各国ワイズのバッジのついた赤いベレー帽が置かれていたのが、とても印象的であった。ここ岡本教会は、美藤さんと結婚され、また現牧師といろいろ生前議論もされた所として、式辞の中でエピソードが語られた。最後に、一同の献花があり出棺をお見送りした。
 会葬者は300人程、そのうち多くはワイズで、東西日本区理事をはじめ、西日本区はもとより東日本区からも沢山の人が参列され、改めて故人の影響力の大きさと、故人を偲ぶ心の深さを目の当たりにした思いがした。もうこの地上ではお会いする事が出来ない寂しさを胸に刻みながら帰途についた。
[東京クラブからの参列者]メン=庄司、中冨、松本、山中 メネット=中冨、松本、山中


鈴木謙介さんの略歴

1912年 岐阜県に生れる 1975年 第50代国際会長
1940年 北京クラブ 1978年 大阪クラブ
1951年 大阪クラブ 1982年 バランタイン賞
1953年 東京クラブ 1982年 大阪センテニアル
1958年 第8代日本区理事 1988年 日本区名誉理事