女性船員の活躍
昭和57年に川崎汽船㈱の内々定を受けていたものの、機関学科教授の勧めで日本石油(現在ENEOS㈱)直系オペレーターの東京タンカー株式会社(現在ENEOSオーシャン㈱)に三等機関士として入社した。その時、社内には2名の女性船員(看護師)が在籍しており、社船原油タンカー乗船と本社勤務をされていた。昭和29年に船社と造船界から約3億円が政・官界に流れ、71名の逮捕者を出した戦後最大の造船疑獄事件、捜査の最終段階で自由党幹事長・佐藤栄作(のちの総理大臣・ノーベル平和賞受賞)の逮捕許諾請求を決定したが、翌日犬養健法相の指揮権発動で捜査は挫折して終結となった。東大卒で運輸省官房長を務め、同事件で逮捕され運輸省を去った壷井玄剛氏が、その後昭和46年に東京タンカー㈱の社長に就任、特異な発想で女性船員時代の幕開けを宣言、約30名の司厨員(調理及び事務担当)と看護師の女性船員採用に外航船社として初めて踏み出し、海運界でかなりの話題となる。明治14年に岩崎弥太郎が三菱商船学校、近藤真琴が鳥羽商船
黌を興し日本人商船士官誕生から100年近くが経っていたが、東京・神戸・鳥羽を始め、いずれの商船学校も男子全寮制で女性には門戸を開いておらず、航海士と機関士の上級海技免状の取得が出来ないことから、司厨員と看護師の採用にとどまった。採用から数年が経つとほとんどの方が嫁いで行かれて、残った2名の方も船員保険の当時の年金受給資格15年間を待って退職された。壷井玄剛氏は昭和60年に5,200億円の負債を抱えて倒産した三光汽船㈱の管財人を最後に亡くなっている。明治14年から140年が経ち、現在では日本郵船、商船三井で女性船長も誕生して活躍をされているが、それでも日本人船員全体の2.5%を占めるだけでまだまだ少ないのが現状である。