自然の時間の中で

黄 立翰

 ひとりで尾瀬の湿原を歩いたとき、僕はなぜか淋しかった。
 自然界に流れている時間や、その中で自然の時間に身を任せながら、自分自身の体で自然の時を刻んで生きている動物たち、あるいは全体を包み込んでいる大きな意思のようなものと僕との間に、大きな溝を感じて、自然から取り残されたような気がしたのだと思う。


[尾瀬ヶ原]

 最近、「癒し」という言葉がよく使われているけれども、もともと自然の一部どころか、自然そのものでもあるはずの人間という生き物が、自然から自分自身を隔離して生活しているわけだからストレスを感じたり、リズムを崩したりするのは無理もないだろう。自然の中に身を置くと、やはり心身ともにホッと癒されるのは当然なのだ。


[尾瀬沼]

 地震が起こることを前もって感じたりする動物は多いと聞く。僕たちはこれを、超能力と呼んで片付けてしまうのだけれども、本当にこれは特別な能力なのだろうか。自然そのものとして生きて、自分の意思イコール自然の意思、のような感覚で生きる動物たちにとっては、自分のことのように地震が起こるのが分かってしまうのではないか。
 僕たち人間の方が「僕らは僕ら、自然は自然」という生活をしてしまっているために、例外的にこの能力を失っているだけなのではないだろうか。考えてみればコンパスがないと方向感覚すら持てない自分は、本当に情けない動物だよなぁと思う。せめて時々でも自然の中に身を置いて、よく耳を澄まし、すっかり薄くなった足の皮で歩いて、「そうそう、大地はこういう感触だったな」と思い出す作業をしないと、自分が動物であることすら忘れてしまいそうな気がして何かたまらなくなる。