デジタル時代にアナログで

広田光司

 「カーナビ」は今や自動車の標準装備と言えるまでに普及しています。私はいまだにアナログの地図を愛用していますが、ある時たまたま車の修理のために代車として借りたレンタカーに「カーナビ」が装備されていました。ちょうど学生募集の為に各地の高校訪問をしているときでしたので、カーナビを利用して高校の所在地を探りあてて訪問して回りました。
 驚くほどに訪問がはかどり、それまでは一日に8校ぐらいしか回れなかったものが12校ぐらい訪問することができるようになりました。いまさらながら文明の利器の便利さに感心したものです。画面上には自分の利用する道路しか表示されないため、そのとおりに進んでいる限りは迷うことなく、希望の地点に到着することができるわけです。もし仮に間違った道に迷い込んでも修正をしてくれるところは涙が出るほどうれしいものでした。
 しかし、デジタルの悲しさは、今自分がどの辺にいるか(位置するか)について認識しづらいことです。言い換えると、今度はどこに行こうかと考える判断材料を得るためには不都合です。もちろんそれなりの操作をすることで全体の地図を見ることはできるのですが、ボタンを押さない限りは全体の中での位置づけは把握ができません。
 時計でも同じことが言えます。アナログの時計は分・秒までも正確に時を知らせてくれますが、一日の中で、今どのくらいの位置にいるか、また、あとどのくらいで、その時が来るかについて推し測るのには向いていません。
 デジタルは○か×で、△はありません。曖昧さがない世界です。しかし、私たち人間は曖昧さでいっぱいです。全体の中での位置を把握する思考は東洋に特徴的なものとも言えます。医学でも西洋は駄目な部分を切り取りますが、東洋医学は全体の中で部分を考えます。
 現代はあらゆるものがデジタル化しています。思考もデジタルになり勝ちです。デジタル思考は目的に達するためには効率的・効果的で非常に良いのですが、どんな全体像の中で目的に繋がっているか、ほかの道はないのかを考える余裕を持ちにくいと言えます。
 今この変化の時代、効率のみを求めるではなく、大きな視点から進むべき方向を見定めていくことが大切な気がします。
 YMCAの有様・方向を見定める目は、単に効率・経済的な視点のみではなく、大きな神様の御心を推し測りながらアナログの視点で見定めていきたいものです。